かんがえるにわとり

形になれば、いいなあ

なんでおばけ

ようやく冬も終わって暖かくなってきた4月。

うちの学校にも新入生が入ってきて、研究室も多少なり賑やかになってきた。

新学期の授業も始まって、僕は新入生とともに今期の単位を伺ってるわけだけど、ある授業のイントロダクションの自己紹介で面白いことを言ってる子が居た。

 

「まわりからなぜなぜお化けとよく言われて...」

 

僕らが学んでることは「知識 is 何」みたいな傍からどころか僕らからしても「なにやってんだろ?」と言わんばかりのまだまだ始まったばかりの学問。

これもひとつ「なぜ」ではあるが、僕はともかくあとで話を聞くと、その子も学部時代にデザインを学んでいたようだ。

デザイナーと言うのは常に「相手」が存在していて、必ず相手の「為に」創作しないといけない。(ここ最近「デザインは責任が伴う」と色んな所で言ってる)

となれば、相手が何を望んでいるか、「なぜ」それが欲しいのかをキャッチボールする必要がある。尤も大企業におけるデザインプロセスではやりづらく、時間も掛かるため難しいところではあるけども...。

目の前にある問題に対して「なぜ」を詰めていくことでアイディアが生まれて、結果便利なものが出来るかもしれない、というのは米ABCが特集したIDEOの"DEEP DIVE"を見てもらえればちょっとは解るかも。

 

一方でこの「なぜ」はいきなり見つかるものではない。

普段から目にしたもの、手に触れたもの、聞こえた音、匂い、味に対して「なぜ」のアンテナを張りまくることが何より大事である。

「好奇心は猫をも殺す」というのはどうやらイギリスのことわざ(Curiosity killed the cat.)のようだけど、なんか向こうでは「猫は多生」扱いらしい。冬木にバーサーカーで召喚されたヘラクレスなにかか?

その「命をたくさん持った(=簡単に死なない)猫でも自身の好奇心で死んじゃう」っていう、ある種「面倒なことには首を突っ込むなよ」的戒めだけども、むしろそう言うスタンスで猫の墓を立てまくるくらい「なぜ」「なぜ」で世間に食って掛かってそれを形にしていけば、アイディアの引き出しも増えるし頭も柔らかくなる。

 

考えることをやめたら人・・・ホモサピエンスの語源的な意味からして、生物界的に人じゃなくなる、とまでは言わないけど、自分の生きてる環境や興味をもった事柄、あるいは困ってる誰かに対して、「なぜ」を持って考えていけば楽しい人生が送れるんじゃないかなぁ。